わずかなパン種が練り粉全体を膨らませる

わずかなパン種が練り粉全体を膨らませる

パン粉

新しい曲を作ってる途中

「さっきまで喜びがあったのに、なんか急にしんどくなってきたな」てことを感じました。

そこで「何か余計なことしてしまったかな?」と、一旦手を止め考えてみることに。

好きな曲を参考にしてコード進行やベースのリズムを取り入れたりしたけど、どこか悪化してる。


翌日その曲を改めて聴いても「なんかテコ入れする前の出来の方が喜びがあったな」と感じました。

「悪くないけど好きでもない」という感じで。

そして注意深く聴くことで具体的にどの部分が好きじゃない、喜びがないというのも大体めぼしはつきました。

が、その前にまず祈って聖書を読んでから再開することにしました。

そしてちょうど読んでたガラテヤ5章で

『わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです』 という文が目に入ります。

「パン種」という言葉は聖書では比喩としてよく用いられますが、ここでは間違った考えが入ることの危うさを諭してます。

その聖句を作曲に当てはめて考えてみて、

「ちょっとでも御心でないものを取り入れてしまうと、まったく恵みを感じられない曲になってしまうのではないか」と思いました。

喜びがなくなったのは「それはやめなさい」と伝えてくださってたのかもしれないなと。

最近の御言葉で「芸術は選択の連続」だと言われてたのも思い出し、

「全ての選択を御心に適ったものにしないとほんとになんの恵みにもならない無価値なものになってしまうな」と実感。

また同じガラテヤ5章で

『肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。 』という文節も目に入りました。

「自分が良かれと思って肉的には『いいな』と感じてやってみたことも、霊的には悪影響なことがあるんだ」と思いました。

だから霊的な喜びを重視した選択をすることが重要なんだと感じます。

それが御心に適った選択につながるんだと。

これは聖霊を感じれなかったらできなかった、わからなかったなと実感してます。

「これは聖霊を受けないとまともに作れないな」

「自分でいい曲と思っても世の中レベルの曲にしかならないな」と。

なので「ちゃんと聖霊を受けてからやろう」と改めて思いましたし、

ちゃんと祈ったら聖書や御言葉から答えもくださるということも実感できて、「もっと祈ろう」とも思えたできごとでした。

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